退学願を出して思ったこと

 

akisora.hatenablog.jp

長くなってしまったので、2つに分けてアップします。

と書いておきながら、2年が経ってしまいました。

1日坊主でお恥ずかしい。

「退学」という1つのゴールを選んだにもかかわらず、「本当にこれで良かったのだろうか」というもやもやが自分の周りに漂っている。

ただ、その気持ちを記録しておくことは大事なんじゃないかと思い、恥を忍んでキーボードを叩きたい。

退学願*1を出すきっかけ

自分で見出しをつけておきながらではありますが、受動的な意味での単純明快なきっかけは無かった。

最後の1年半は休学していて、その中でなんとなく「自分はだめなんだろうな」というメタ認知的な自己評価があった。

僕は退学願を出す」というもやっとした想像の背中を押したのは、結婚であったことは否定しない。

 

結婚を決めた当初は、それを理由に退学するつもりはなかった。

ただ、その過程で親との揉め事が発生し、何かあった時*2にサポートを依頼できるような関係ではなくなってしまった。*3

むしろそれが決め手になったかもしれない。

いや、なった。妻に甘えるわけにも行かない。自分でなんとかせねばと。

退学後の見通し

正直に言って、無かった。笑

勤務中だった非常勤講師をキープし、その間に自分のスキルや経験を活かせる民間会社に就職したい!という曖昧なイメージを持っていた。

そのために企業会社を探したり、資格試験を受けたりしていた。

そんな時に、2つの話がほぼ同時にやってくる。

  1. 元ボスから研究員としての有期雇用(いわゆるポスドク
  2. HPの管理を請け負っている会社からの無期?雇用

いろいろ、いろいろ相談して、いろいろ、いろいろ考えた結果、前者の話を受けることにした。

前者の話を受けるには、「前期で退学」が求められた。

家族とのやりとり

ここを少し突っ込んで記述すると、

家族

兄妹は、「頑張れ」と言ってくれている。

多分半分くらいは「やっと働くんかい笑」っていう気持ちだと思う。

両親は…口も聞けない。苦笑

これまで応援してきたのに辞めるのか。

ということだと思う。それについては異論も反論も無い。

ただ、入学金、学費…と指折り数えられた時はもう。

*4

妻は、「あなたの好きなようにすれば良い」と僕に言い続けてくれた。

たぶん、場合によっては学費を出してくれる、くらいの心持ちだったと思う。

研究員を選んだことも応援してくれている。

彼女がいなければ、今の自分は無いと確信を持って言える。

義父母

これもありがたいことに、自由を与えてくれている。

これもありがたいことに、厳しいことも言ってくれる。

お義父さんお義母さんとは、今の関係をキープしたいと思っています。

指導教官とのやり取り

何度か時間をもらっていろいろな話をした。

なんかもうね。父親、神、仏。もう…僕は一生頭が上がらない。

隠さず言うと止められたし、少なくともその選択がベストだとは思わないと。

でも、決めたことならと、判をついてくれた。

話したこと全てを記録したいくらいだけど、それは無理。

「良い研究していたよ」

と言われた時は、涙を止めることが出来なかった。

いつか、この恩を返したい。そう思っている。

退学願を出すまで

ボスの部屋を泣きながら出たあと、キャンパス間の連絡バスに乗りメインキャンパスに。

流れていく車窓を見て、走馬灯のようにこれまでの記憶が蘇ってきた。

あのスーパーよく行ったな。

あの時準備が間に合わなくてバスの中でスライド直したな。

休学願を出しに行ったな。

走馬灯、ってこういうことを言うんだなと思った。

そんなセンチメンタルな気持ちになり「本当にこれで良いのだろうか」と反芻しながら、バスは遠慮なく進んでいった。

 

メインキャンパスのバス停から、所属学部の事務室まで歩いて10分。どんなにかかっても15分。

その道程を1時間以上かけて行くことになる。

 

僕は、「面白い人達がたくさんいる!」というのが理由の1つでこの大学を選んだ。

歩いていると、夏休みな上にコロナだから、いつもより少ないはずなのにたくさんの人が目に入った。

「今、自分はこの面白い人達の一員。でもこれを出したらそうではなくなる。」

そんな思いが、足取りを重くした。

あっちに行ったりこっちに行ったり。

珍しくコーヒーを飲み始めたり。

見たこともない掲示板を見てみたり。

階段を上り下りしたり。

人生で最も長い"10分"だった。

 

意を決して出しに行こうとすると、正面から担当の事務の方が。

もう逃げられない。

休学ではなく、退学願を出す旨を伝えると、「先生から聞いています。向かっていると」

そこからは、良くしてもらった事務の女性と、止めどない思い出話が始まった。

院試のときに、「修論のページが抜けています!」と連絡をくれた時からの付き合いだ。

 

「退学って…何とか退学、とかになるんですか?」

「いやうちの大学では…」

 

「僕、7年半いたじゃないですか。僕より長い人っているんですか?」

「…いることはいますけど…やっぱり6年でも長いですからね…」

「僕、1番だって使っていきます。笑」

 

そこから、

 

「受理しました」

 

まではあっという間だった。

ホント、自分の格闘した7年半は、こんなあっという間に終わるんだと。

そんな気持ちだった。

退学願を出してから

出したからと言って、気分爽快、気持ちが晴れる、なんてことはなかった。

「本当にこれで良いのだろうか」はやっぱり今でも頭を離れない。

出してから家に帰るまでに、就職の件で若干のトラブルが発生したけど、それはどうでもよかった。

辞めるという決断をしたことと、ボスに「良い研究をしていたよ」と言われたことを考えると、やっぱり泣けてきて

「今ならまだ間に合うんじゃないか!」

なんてすけべ心も出てくる。

そもそも、元ボスのところに戻るのが、どれだけ失礼なことかという自分に対する嫌悪感も根底にあるな。確実に。

 

ただ、たぶんどんな道を選択しても、何らかのストレスはあっただろうから、このストレスは自分で昇華する必要があるとは思う。

ストレスの形を別のものにするのは、自分にとって必要だったと考えたから。

けど、墓場まで持っていくんだろうな。

 

それでも妻が、「正しかったと思えるようなことを探していこう」と言ってくれているのが、支えになっている。

正しいと思えることを見つけていって、10年後くらいに「俺、7年半もいたんだよwww」って言えるようになることを心から願っているし、そうあっていて欲しい。

Conclusion

10年後の自分は何を考え、何を思い、誰と、何をしているんだろう*5

一般的な?Pd.D studentでは無かったと思う。

と思って調べてみたら、博士課程の中退率は2016年で平均8.79%*6のよう。

たぶん今はもっと少なくなっているんだろうな…と思いつつ、僕はその約10%に入ってしまった。

それが良いのか、悪いのか、僕には分からない。

でも、僕が学んだこととその経験は残る。

 

やりたいことをやるorやらせてもらう、ってすごいプレッシャーとそれに伴うストレスがかかる。

僕にはそれを上手く伝えて、助けてもらうことが出来なかった。

 

もし自分がうつ病じゃなかったら。

そう思わない日はなかったし、これからも無いのかもしれない。

ただ、過去の自分には

「自分を信じろ。そして、誰かに頼ろう。」

と伝えたい。

 

出来ないことは出来ない。

自分に出来ることを見つける。

気兼ねなく頼れる人を見つける。

100%は無理でも、少しでもそうしたい。

 

長くなってしまった。最後に1つだけ。

10年後の自分に聞きたい。

楽しくやってる?

 

桜の写真

 

季節外れだけど。

Size doesn't matter, performance does.

*1:退学"届"とする大学・大学院もあるだろう

*2:具体的に言えば経済面など

*3:この記事記載時も同様

*4:院生時から付き合いが始まった

*5:すごい幼稚園小学生みたいな問い

*6:

https://www.mext.go.jp/a_menu/koutou/itaku/__icsFiles/afieldfile/2016/08/02/1371455_2.pdf, P182; 経済的理由。だけど。

博士課程で病んでしまったけど、何とか頑張りたい話。

やっぱりこういうのは、ホットなうちに記録に留めておくのが大事だと思い、新しくブログを開設。
こうやってたくさんの保留になっているブログが…笑

今後どんな記事を書く気なのか、全くもって考えてない。
ただ、殊にこの話題に関しては、自分の記録のため、そして優秀な後輩が少しでも円滑な研究生活を送るためのエッセンスになってくれればと、恥を忍んでキーボードを叩きたい。

長くなってしまったので、2つに分けてアップします。

これまでの研究生活(自己紹介的に)

Masterまでと僕の研究について 

中学生のそれとなく高校という進路を決める時期に、「将来何をしたいんだ?」と両親に聞かれ、「学校の先生になってサッカー部の顧問になりたい」と答えた。

それ以降、学校の先生になるというその時考えた精一杯の夢に向かって、高校受験大学受験の失敗、浪人を経ながら、何とかかんとか、第一志望のある地方国立大学の教育学部*1に進学。
学部3年で研究室に配属*2されていろいろあるまでは「先生になる」と思っていたけれど、教育実習に行って「あ、これは違う。僕にこの仕事は向いていない」と。
元々、教員になるにしても大学院に進学することは決めていたので、そのまま学部を卒業後、何も考えずに同じ研究室で院進。

ここらあたりで研究テーマについて少し。

身バレしても良いような気もするけど、妙な検索に引っかかって同定されて、余計な心配をかけるのは本意ではない。
なので詳細については伏せますが、「地球惑星科学」の何か、が専門です。笑
当時は観測っぽい研究をしていて、今思うととにかくがむしゃらだった。
論文を読み、パソコンをカタカタし、たくさん画を描き、研究会や学会で発表して…もしかすると周りの同期には、「教育学部のくせに、何張り切って研究しちゃってんの?」と思われていたかもしれない。笑

それでも、ボス、学会や研究会で出会った人、観測で見たあの青空…
「こんな面白い人達みたいになりたい」「また観測に行きたい」という意味で、研究者という職業に憧れを抱くようになった。

他大にD進

ボスに

「教育学doctor*3がこの世界でどれほど役に立つのか俺にはわからない」

「周りに研究者になりたいやつがたくさんいるところに移ったほうがいい」

と、口酸っぱく有り難くアドバイスをもらっていたこともあり、理学doctor(じゃなくても工学とか環境学とか…)への道に。
自分の大学に同じ研究テーマを引き継げる研究室は無かったので、他大への編入が既定路線になった。

当時のプロジェクトのメンバーの大学院・研究室に行く…と思いきや

「もしかしたら他のことがやりたくなるかもしれない。」

「住んだこと無いところに行ってみたい気持ちもあるよなあ」

「僕が面白いと思った人は○○大出身なんだよな…」

とかいろいろ考えた結果*4、旧帝の○○大学大学院理学研究科博士課程に編入学する運びに。

編入した後

自慢じゃないけど、僕は人を見る目だけはある。
僕の今ボスも、研究室も、そして大学も素晴らしい。
これ以上の選択はもしかしたら無かったかもしれないとすら、病んでしまった今でも思っている。
前の大学みたいに自費で出張するようなことはなくなり*5笑、周りに仲間がたくさんでき、素晴らしい先輩後輩に恵まれた。

それでもなんとなく、憂鬱になる時期が周期的に現れるようになり、上手く論文が書けず、D4、D5…半期の休学を経て、復学して、D6の今に至る。

病んだ、何度も

別に何を言われたわけでも無い。
いわゆるアカハラ*6は何もない。
それでも病んでしまった。

もちろん、論文が書けていないこと、現在と将来の経済面での不安が拭いきれないこと、周りや後輩はそうそうに学位を取って、早い人ではもうパーマネントで助教
気にしているつもりはなかったけど、少なからず焦りはあった、あると思う。

とにかく、研究の進捗をボスに報告するのがとてつもなく苦痛になってしまった。
メールボックスを開くのも苦痛だ。
繰り返しになるけど、別に何を言われたわけでもない。
それでも、「怒られているメールが来ているかもしれない」「もっと何か良い結果が出せたんじゃないか」…ネガティブなループにハマってしまう。

ボスから親に連絡も行った。親も、下宿先に飛んできた。
いわゆる三者面談もしてもらった。

それでも…上手くいかない。恥ずかしい話だ。
数か月おきに、変位が負になる。割と大きな振幅で。

やっと重い腰を上げ、割りかし元気なタイミングで精神科心療内科に足を運んだ。
診断結果は「」だった。
単極の鬱なのか、躁鬱なのか…は経過を見なければということで、薬を飲みながら検査と診察を続けることに。

鬱と言われて思ったこと

「鬱だと思います」と言われたのは、1時間ほどの初診と採血の後だった。
覚悟はしていたというか、まぁそうかと、宣告そのものに対してはそんなに驚きも無かった。
何か、もう自分に自信がないので、動揺してお医者さんと話せなくなったらツラいなと思い、彼女*7に付いてきてもらったのがアホらしいほど冷静だった。

それでも、やっぱり、明確に言われたことで

「自分が鬱になるなんて」

というありきたりなことは思った。

www.huffingtonpost.jp

 別に「自分が大丈夫」と思っていたつもりもないし、

gigazine.net

気をつけようとは思っていたし、

news.yahoo.co.jp

www.nishinippon.co.jp

分野こそ違えど、こんなニュースを見ると他人事ではないと思っていた。

もちろん、なりたくて鬱になったわけではないのだが、まさか自分の身に。

その一方で、スッキリしたところもある。
治していこう、と。
完全に治ることがあるのか、分からないけど。
少なくとも上手く付き合って、楽しく生きていきたい
自分に研究が向いているのかは分からないけど、できれば学位を取るまで続けたい。

Conclusion

というわけで、長くなったけど。
とりあえず第一弾。背景の描写を。
次回、「こうしたら良かったかな?」「こう出来たのは良かった」をまとめたいと思います。

ちなみにブログのタイトル

Size doesn't matter, performance does.

は、ディズニー映画ベイマックス*8の、好きなセリフです。*9

www.youtube.com

良かったら日本語版ではなく、in Englishでぜひ。この映画は。

とりあえず映画の宣伝をしたところで。今日はここまで。

f:id:CieloOtono:20201204125002p:plain

腕がなんだか変。笑

*1:僕が入学卒業修了した当時は教育学部という名称ではなく、いわゆるゼロ免課程もある学部だった。

*2:研究室選択の際にも色んな思い出があるので、近々別アップしようかな。

*3:1991年以降に取得した場合は「博士(●●)」と言うのが正式だけど、細かいことは気にしない。今でも「●●学doctor」って言ったりするでしょ?笑

*4:まぁここでも実はいろいろあったのだけど、長くなるので別記事にします。笑

*5:当時前ボスはまだ若く…今も若いが…研究費を獲得出来ていなかったので、それなりに無理もしていたと思うし、自分も望んで行っていたので、いわゆるブラック研究室というわけではない。

*6:

www.naah.jp

*7:同棲中。婚約者。

*8:

www.disney.co.jp

*9:原題はBig Hero 6。